


火山噴火による津波災害

駒ヶ岳はかつて富士山のような円錐形で、標高1,700mほどの山体だったと推定されています。度重なる噴火活動を経て、初めて古文書に記された1640年(寛永17年)6月13日(現在の暦だと7月31日)の大噴火によって山頂部が崩壊し、火口原を取り巻く外輪山として、主峰の剣ヶ峯(標高1,131 m)、砂原岳(1,112 m)、隅田盛(892 m)、稜線の駒ノ背(約950 m、火口原の北西)と馬ノ背(約900 m、火口原の南)が形成されました。


この大噴火のとき、崩壊した山頂部の岩石が雪崩のように高速で流れ下り、東方と南方の山麓に堆積しました。これを「岩屑(がんせつ)なだれ堆積物」といい、長い期間の活動によって大小さまざまの丘が散在する「流れ山」地形を形成してきました。
大沼の中にある小さな島々を始め、リゾート地区内にも多くの「流れ山」が認められます。
1640年の大噴火で崩れた火山体の一部は、そのまま海まで流れ下り、現在の出来澗崎を作りました。このときに大津波が起こり、松前藩や津軽藩の記録によれば津波は対岸の有珠付近を直撃し、100隻あまりの昆布採りの舟が巻き込まれて和人とアイヌの700人余りが犠牲になったとのことです。津波は有珠善光寺(現・伊達市有珠町)も襲い、如来堂の後山まで達したが不思議なことに堂は無事だったとの逸話もあるそうです。東京大学地震研究所によれば、津波の遡上高は史料の記録から最大8.5mだったとされています。
この津波は日本で、1792年の雲仙眉山、1741年の渡島大島に次ぐ3番目に大きな火山津波災害とされ、内浦湾の津波としては地震津波も含めて最も大きな被害を与えました。
このように、「岩屑なだれ」が海や湖になだれ込んだ場合は津波を発生させることもあり、火砕流と並んで最も危険な火山現象の一つです。出来澗崎には海に流れ込んだ「岩屑なだれ」先端部の堆積層が認められ、出来澗港の防波堤から眺めることができます。
