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駒ヶ岳噴火の歴史

 2003年(平成15年)、火山噴火予知連絡会(気象庁が事務局を担当)は「おおむね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義し直しました。

 日本にある活火山は北方領土や海底火山を含め、2017年(平成29年)6月の時点で111となっています。

 このうち、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山」として、同連絡会によって50の火山が選定されています。

 これを受けて、気象庁では観測施設を整備拡充し、大学等研究機関や自治体、防災機関からのデータ提供も受けて、気象庁本庁(東京)に設置された「火山監視・警報センター」と、札幌・仙台・福岡の各管区気象台に設置された「地域火山監視・警報センター」において、これら活火山の活動を24時間体制で常時観測・監視しています。

 駒ヶ岳(標高1,131m、気象庁では「北海道駒ヶ岳」と標記)も、常時観測火山のひとつです。

 駒ヶ岳は約6,800~6,300年前の間に、4回の爆発的噴火を起こしています。それから長い休止期を経て、江戸時代に火山活動を再開しました。1640年(寛永17年)の大噴火では山体崩壊の後、大規模な「プリニー式噴火」を起こしました。その後も、1694年(元禄7年)、1856年(安政3年)、1929年(昭和4年)に、同じ様式の大噴火が発生しています。

■プリニー式噴火とは

 プリニー式噴火とは西暦79年、現在のイタリア南部にあった古代都市ポンペイを一夜で埋めたことで有名なベスビオ火山の噴火様式を指します。この噴火を詳細に観察し、後世に記録を残したローマの博物学者プリニウス(叔父と甥)にちなんで、プリニー式と命名されました。大量の軽石や火山灰を放出する、大規模な爆発的噴火です。

 日本では、富士山の宝永4年大噴火(1707年。火山灰は江戸を含む関東一円に降り注ぎ、農作物に多大な影響をもたらした)、浅間山の天明3年大噴火(1783年。大気中に拡散した大量の火山灰が日射量を低下させ、数年来続いていた天候不順を加速させて「天明の大飢饉」を引き起こした)などが、同じ様式の噴火とされています。

​●昭和4年駒ヶ岳のプリニー式の大噴火

​●大噴火で埋没した人家

​●降灰被害のとめのさわ駅

​●大噴火直後の新聞報道

 駒ヶ岳は約6,000年間の休止期を経て、江戸時代に火山活動を再開しました。古文書に記された最初の噴火は、1640年(寛永17年)6月13日(現在の暦だと7月31日)の大噴火です。

 この日、「内浦嶽」と呼ばれていた駒ヶ岳は山鳴りが激しく、昼頃になって噴火に伴い山頂部が崩壊し、「岩屑(がんせつ)なだれ」となって内浦湾になだれ込んで津波が発生しました。「岩屑なだれ」は、火山噴火や地震などによって火山体が大規模に崩壊し、岩石が斜面を高速で流下する現象で、火砕流と並んで最も危険な火山現象の一つです。

 

■山体崩壊と大噴火で出来澗崎が出来た

 

 この山体崩壊から2~3日間、大規模なプリニー式噴火を起こして軽石と火山灰を激しく噴出し、火砕流も発生しました。そののちに急速に衰微して、約70日後に静穏になりました。

 火山灰等の総噴出物量は2.9立方キロメートル(東京ドームの約2,340杯相当)に及び、駒ヶ岳では有史以降で最大級の噴火でした。この山体崩壊と大噴火で出来澗崎が形成されました。出来澗の旧・北海道水産種苗センター付近にある高さ25メートルほどの断崖の下半分には、この噴火による濃灰色の「岩屑なだれ」と「二次泥流」の厚く積もった層が認められます。

 駒ヶ岳の噴火の記録が確かなのは1856年(安政3年)の大噴火以降で、2000年(平成12年)の小噴火までの144年間に17回の噴火がありました。

 その中で最大のものが1929年(昭和4年)6月17日、73年ぶりに発生した大規模マグマ噴火です。この経過を、鹿部町史と気象庁資料、駒ヶ岳火山防災会議協議会作成DVDを参考に、時系列的に紹介します。

 駒ヶ岳はこの年の6月はじめ頃から活動を始め、函館測候所で噴火の数日前から有感地震を観測していた。前日16日午後にも地震があり、22時からは山の鳴動があった。17日0時30分頃から小噴火が始まった模様(函館測候所で0時26分から約8分間の微動を記録)。午前2時から4時頃にかけて山の鳴動と降灰があったものの、曇天であったため山も村も変わった兆候は見えなかったという。5時30分過ぎ、掛澗方面の住民は駒ヶ岳に異様な噴煙が上がるのを認めたが、よもや大噴火爆発になるとは誰も気づかなかった。8時頃、大沼方面の住民がわずかな爆発音を聞いた。9時30分頃、森町で駒ヶ岳から羊毛状の噴煙がもくもくと上がるのが見え、山麓周辺の住民はようやく不安に襲われ始めた。

 

■大噴火による火山灰や軽石などの降下物は1m以上堆積

 次第に降灰が盛んになり、9時50分頃、天地を揺るがすような一大鳴動とともに、ついに大噴火が始まった。軽石や灰は南東方向に降り始め、鹿部市街にも薯(いも)大の焼石が降ってきた。鹿部小学校では、学校長の指導のもと、全校523名の児童が地区別に集団を組み、教員の引率で臼尻方面に避難した。11時、噴煙高度は13,900mに達した。12時30分から火砕流の流下が始まり、立木が燃え始めた。14時30分、火口原に落下する軽石が増え、火砕流が激しくなった。20時頃にも降下軽石が増えたが、24時頃から活動は急速に衰え、18日3時に噴火は終わり、21日に活動を停止した。大噴火爆発はおよそ14時間継続した。

 大噴火による降下物の堆積量は折戸で1m54cm、鹿部市街地で1m6cmに達した。降下物、火砕流、火山ガスによる被害は8町村に及び、死者2名、負傷者4名、牛馬の死136頭、家屋の焼失・全半壊・埋没など1,915戸余り、耕地・山林地・漁場に甚大な被害を及ぼした。

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